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​プロフィール

Profile

はじめまして。Holy islandのmayumiです。

「ほり~♡」「ほりちゃん♡」って私の学生時代のニックネームだったんです( *´艸`)

「まゆみ」って全国にも沢山いるでしょ。定期船もない、診療所もない、自動販売機もない、ダムからの水も通ってなかった島生まれの私。小学校卒業当時は全校生徒4人でしたが、中学生になった時から始まった寮生活と共に同級生が沢山できました。

寮の同級生だけでも2人。学校へ行くと「まゆみさん」が4人もいました。そこで私は名字(旧制)から「ほり」って呼ばれることが多かったんです。

英語で『Holy』って「神聖な」「聖なる」という意味がありますよね。「なんてステキな意味なんだろう(≧▽≦)」って思ったんです。カタカナで書くと同じように聞こえる(言霊な)のに、こんなにステキな意味があるだなんて☆彡

 

心や身体を整えていく事をお仕事としてさせて頂くようになって、私はその人それぞれの「神聖さ」こそが、その人らしさを輝かせて行ける一番の手段じゃないかな~と思うのです。

私という一人の人間を通して、「ほ~り~の島時間」を感じて頂きながら、それぞれの神聖さを思い出して頂いて、お一人お一人が生まれたころのように純粋で、喜びに満ちた、笑顔溢れる日々を送れるようなサポートをさせて頂きたいと思ってサロン名を[Holy island]にしました。日本語と英語の言霊遊びと言いますか(⋈◍>◡<◍)。✧♡語呂合わせと言いますか(≧▽≦)

​私の遊び心と願いを込めてのサロン名です。

そんな私は、3人姉弟の2番目として、この大きな宇宙の中にある「地球という島」の中の「日本という島」のそのまた「四国と言う島」の中の「愛媛の中の定期船もない島」に生まれ育ちました。どんだけの究極を望んで生まれて来たチャレンジャー魂さんなのか分かりませんが。。。(;^ω^)

生まれながらにアレルギー体質で、よく蕁麻疹がでていました。他にもアレルギー症状と呼ばれる目のかゆみ、鼻水、皮膚のかゆみ、発疹、くしゃみ、咳、アナフィラキシー症状を伴った事もあります。ですが、幼少期の私は、あたりまえのように

「親の言う通りにしなければならない」「親の言う事が正解だ」と思っていましたので、病気になれば病院へ行って処方してもらい、薬を飲むという事をしていました。勿論、それで症状が落ち着いた時もあるのです。

でもきっと、それ以上に。。。

良くならなかった時、辛さを訴えた時にかけられた言葉の意味の裏側まで感じる事が出来ずに、ただ、「怒られた」としか思っていなかったことと、お薬を飲んだとしても治らなかった時の辛さがトラウマとなって、病院嫌いになりました。

​それと同時に自分の辛さを伝えると怒られると勘違いして、自分の本当の気持ちを抑える事があたりまえ=「クセ」になっていきました。

薬を飲まずそのまま放置していた方が早く症状が落ち着く経験もして来ました。

「病院って何?」「薬って何?」「放置してて治るのなら、病院も薬も要らないじゃん!」そんな気持ちを持ち始め【自己治癒】という、【自分には自分を治すことが出来る力】がある事を確信してきたのも自分のカラダの経験から感じてきたものです。

​病院嫌いの原因は他にもありました。多くの患者さんや場所のエネルギーを感じ取ってしまい、自分には元々なかった症状が更に追い打ちをかけるかのように更にしんどくなってしまう。例えば呼吸の苦しさや頭痛、重ダルさ等が更に加わってくるといった、そんな私のカラダだったからなのです。

​人込みに行くと特に感じてしまうその症状は実は病院だけに限ったことではなく、学校やスーパーやデパートなどでもありました。

​人込みの多いスーパーやデパートへ長時間行くと、家に帰って来てから1,2時間は倒れこむように眠る事で体力を回復させないと、とても辛かったです。

買い物へ行くとか、学校行事に参加するという事は、子育てをしていると必須です。

そして、なかなか自分の時間を保つことが難しい。でも辛い症状は早く回復させたい。

そんな私の経験から、整体師としてお仕事をするようになってからは、誰かに頼るだけではなく、自分自身でも出来る日常的なケアを重要視するようになって来たのだと思います。

​勿論、直接お時間を頂いてお喋りしながら、体に触れさせて頂きながらリラックスして頂けることがとっても嬉しいのです☆彡

そんな私の幼少期ですが、毎晩続く両親の夫婦喧嘩を必死に耐えていました。

私が2歳の頃のこと。

51歳という若さで父方のおばあちゃんが亡くなりました。私の父はその後、寂しくなったのか、愛人を作っていました。母は不平不満が募り、怒りを爆発させて夫婦喧嘩をしていたのだと思います。

益々その状況は酷くなり、ほとんど父が居なくなった状態の定期船もない島の家の中で、母が感情をぶつける矢先は一番に父似の私でした。私自身が悪者なんじゃないかって思って、とても辛かったし、自分がダメ人間だと思うようになっていきました。

そんな私は、「自分は両親のようにはなりたくない。」と、結婚しますが、21歳で長男、23歳で長女を出産後1度目の離婚。

その後、「幸せになりたい」と2度目の結婚をし、更に2人の子供を出産。3人目の娘が知的発達障害と認定されたのが3歳の頃でした。

「幸せになりたい」と望み結婚をしたはずでしたが、4人の子供達を連れて、2010年、2度目の離婚を経験します。

「子供達だけには自分と同じような思いをさせたくない。」そう思っていたのにそんな思いとは裏腹に、辛くて苦しい、そして悲しい日々が続いていました。

​離婚後もそれは続きます。子供の引きこもり、窃盗、いじめ、不登校等、私にとってとても辛い出来事が続きました。

それまでには、知的発達障害がある娘を含む4人の子供達を育てる為、生活の為に必死で、パートの掛け持ちをしたり、酷い時には2・3時間の睡眠時間で、夜昼問わず色々なお仕事を経験しました。

貯金も家も...頼る実家もないそんな私が整体師として独立したのが2015年です。

整体師として独立してから、様々な方に出会うようになり私の世界観はどんどん広がって行きました。出会う方々も様々な職業、職種の方。

そんな中、SNSを活用するようになり「エネルギーワーク」や「ヒーリング」で肉体だけではなく魂や過去世からの癒し方も知り、それらを受けるようになりました。

また、それらを活用した「カウンセリング」を受けるようになった事で、更に深い癒しを得られました。

それまでの私は「生きながらにして地獄のような日々だ」と思っていました。苦しさのあまり、自らの命を絶つ事さえ考えて、行動に移そうとしていた時もあったほど絶望的でしたが

「私も、もっと変わりたい」「もっと幸せになりたい」そう願うようになって、「それらを活用できるようになりたい」と思うようになっていきました。

その後、自分自身でもエネルギーワークを活用することが出来るように伝授・能力開発して頂きました。

私の身体はとても軽くなっていきました。呼吸することもとても楽になっていきました。それまでの自分の身体がウソのように感じられたのです。まるで羽が生えてきたかのように軽くなって、嬉し涙がとまりませんでした。

また、活用していく上で疑問に思った事の確認や技術調整等、アフターフォローも受けるようになりました。

技術確認だけでなく、私自身のカウンセリング(心のケアと整理をお手伝いして頂く事)をも受けるようになると、少しずつ、私自身や子供達、そして、その他の家族も変わっていくことが明確に認識できるように変化していったのです。

​私の生きる喜び(嬉しさ)がドンドン増していったのです。

それまでの私は、「何をしても変わる事が無い」と思っていて、生きる希望なんて感じる事すらできない程の究極の絶望状態でした。しかし、「変わって来た」と感じられるようになった私は、「同じ様に苦しんでいる周りの方々も幸せになって欲しい」と願うようになりました。

そんな私の経験を生かして、その経験から得たものを伝えていく事で、少しでも勇気と希望を持って頂いて、皆様と一緒に幸せの道のりを歩んでいきたいと思っています。

今は心と身体の両側面から、皆様が笑顔で過ごせる日々を送って頂けるようお手伝いさせていただく事が喜びです。

世界中の皆様が笑顔という花を咲かせることができますように...

佐竹真由美

Mayumi Satake

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